本とワイ

好きな本とか雑文集的な

『罪と罰』~理論と生活~

ドストエフスキー著、工藤精一郎訳(1987)『罪と罰』<上・下>新潮文庫

f:id:takemaru_ona2:20161127172610j:plain

f:id:takemaru_ona2:20161127172653j:plain

 『罪と罰』はについて多様な解釈があるが、一つに私の心を大きく捉えたテーマがあった。それは当時の不安定なロシア社会にあって、青年が病的な程に思想や主義に捉われて生きていくことへの警鐘である。つまり頭の中の功利主義や超人思考などの「理論」だけの世界で生きるのではなく、目の前にある現実の「生活」を愛するということ。

 私はこの本を読んでヴォルテールの『カンディード』が真っ先に頭に浮かんだ。こちらも主人公であるカンディードが、ライプニッツを模した予定調和説を唱える彼の家庭教師パングロスと旅をする中で、「お説ごもっとも。けれども、わたしたちの畑を耕さなければなりません。」と神の摂理を彷徨い求めるよりも地上の生活へと向かう姿が描かれている。

f:id:takemaru_ona2:20161127174216j:plain

 『罪と罰』のストーリーを上記のテーマに沿って非常に大雑把に言ってみよう。貧乏な学生の主人公ラスコーリニコフは、がめつくて悪名高い質屋の老婆を殺したが、その行為は多くの善行によって償われるであろうとする。しかし殺害現場に偶然居合わせた、全く関係ない老婆の妹のリザヴェリータまで殺してしまった。のちに彼のその行為は何重もの罪と罰の意識を呼び覚まし、彼自身の精神を病的なまで打ちのめしてしまい、彼は正常な思考を保てなくなり狂人とも思えるほどの有様になってしまう。紆余曲折ありながらも彼はソーネチカという、非常に貧窮した家庭を支えるために娼婦として家計を支えている、けなげな少女と出会い好意を抱いていく。しかし彼女が殺害したリザヴェリータの友人であることを知り、彼はさらに罪と罰の意識と向き合うことになり、彼はついに彼女にそのことを告白し、敬虔なキリスト教信者であるソーネチカと向き合うことによって最終的に自首することとなる。そこで彼はソーネチカの献身的な愛によって「理論」の世界から「生活」へ向き合っていくことになる。

 では彼を例の老婆を殺害させるに至らせた動機は上記の思想である「一つの微細な罪悪は百の善行に償われる」、「選ばれた非凡人は、新たな世の中の成長のためなら、社会道徳を踏み外す権利を持つ」という理由だったのか。いや、それはちがう。彼は単に困窮していた自分の生活を変えるために殺したにすぎなかった。思想は彼に口実を与えたにすぎなかったのだ。

   しかし彼は老婆の殺害と思想の問題以前から善行をしてきた様子が述べられている。その様子はなにか思想などに取り憑かれたわけでなく彼自身の「生活」の上での心からの行為に思える。

 彼は、この思想という青年にかかりやすいこの特有の熱病にかかり、老婆を殺害する口実を見出しただけなのだろうか。私はこの熱病が彼の行為を正当化し、老婆の殺害まで押しやったのかと思う。

   しかし彼は老婆を殺害してから、罪の意識と罰への恐怖にさいなまれ精神に異常をきたし苦しむ中で、彼自身が凡人だということを思い知らされる。

 しかしソーネチカに出会いはこのような思想などの「理論」ではなく、目の前にある「生活」を愛し生きていくことの意義を見出していく。そう、ソーネチカのキリスト教への敬虔な態度と民衆との触れ合いの中にそれを見出していく。作者のキリスト教への愛が非常に伝わってくる。

 もちろん『罪と罰』はこれ以上のとてつもなく膨大なテーマがあり、自分が無学無知にして語ることは恐れ多いが、一つだけでも自分の心に焼きついて離れないような自分の問いを、文章に残して整理し、それを発信できたらたらと思った次第です。

 『罪と罰」、この「罪と罰」というテーマは僕が思ってる以上に大きくて重層的でいて深い。時間をおいて改めて読んだら、見方もまた変わるのかもしれない。